「価値のある私」から降りたとき、見えてくる世界

そると/心とエネルギーのお話/ビューティフルライフカウンセラーそると/心とエネルギーのお話/ビューティフルライフカウンセラー

これまで私たちは、

「私には価値がある」

「私には価値がない」

という二つの世界を行ったり来たりしながら、

生きていたのかもしれません。

価値のある自分でいるときは、

「もっと大切にされていい」

「もっと評価されていい」

「もっとお金をもらっていい」

と思う。

反対に、価値のない自分だと感じているときは、

「こんな私が愛を受け取っていいのだろうか」

「こんな私がお金をもらっていいのだろうか」

と、罪悪感を感じる。

一見すると正反対の二つの自分。

でも、今振り返ると、どちらも同じ世界の中にいたのだと思います。

それは、「自分の価値を証明しなければならない世界」です。

自分の価値を証明し続けることの限界

価値がある自分でいれば、認めてもらえる。

価値がなければ、認めてもらえない。

だから私たちは、頑張る。

役に立とうとする。

結果を出そうとする。

人より優れようとする。

誰かに認めてもらおうとする。

そして、認められれば、「私は価値がある」と安心する。

でも、その安心は長く続きません。

もっと評価されなければ。

もっと結果を出さなければ。

もっと必要とされなければ。

そうやって、自分の価値を証明し続けることになります。

そして私たちは、あるとき思ったのです。

もしかしたら、これと同じ構造が、社会の中にもあるのではないか、と。

 社会の支配構造と「価値」の意識

もちろん、歴史上の支配構造は、そんなに単純なものではありません。

政治、経済、宗教、制度、資源の奪い合い、

戦争、暴力、権力、社会的な役割など、

さまざまな要因が複雑に絡み合って、

今までの社会がつくられてきたのだと思います。

だから、「支配する人は、自分に価値があると思っていたから」

という一つの理由だけで、歴史を説明することはできません。

でも、「人間が自分の価値を証明しようとするとき、

他者との間に上下をつくりやすくなる」

ということは、私たち自身の人生を振り返ると、確かに感じるのです。

「私はあなたより価値がある」 と思えば、相手を下に置きたくなる。

「私は大切にされるべき存在だ」 という思いが強くなりすぎると、

自分のために誰かを動かしたくなる。

一方で、「私は価値がない」と思っている人は、

「この人の言うことを聞かなければ」

「役に立たなければ」

「嫌われないようにしなければ」 と、

自分を下に置いてしまう。

そう考えると、 支配する側と、支配される側は、

まったく別の人間なのではなく、

「価値がある/ない」という

同じ世界の両端にいるだけなのかもしれません。

もちろん、これは歴史を説明するための答えではありません。

あくまで、私が自分自身の内側を見つめたときに感じた一つの見方です。

でも、この視点を持つと、自分自身の人生も少し違って見えてきました。

かつて私自身も、無意識で「価値のある自分」になろうとしていました。

そして、「価値のない自分」を見たくありませんでした。

価値のある自分でいるときは、もっと受け取っていいと思う。

でも、価値のない自分でいるときは、受け取ることに罪悪感を感じる。

仕事でも同じでした。

会社員の頃は、「こんなに命を削って働いているんだから、

もっとお金をもらっていい」と感じていました。

しかし起業してからは、

「大切なお客様に、もっといいサービスをしなければ」

「自分のプライベートな時間を犠牲に働くことは当たり前」

となっていった。

そして、自分の命を削って働き過ぎた結果、

「最高のパフォーマンスができていない状態で、

お客様からお金を頂いていいのだろうか」と苦しくなった。

今思えば、ここにも、

「価値のある私」

「価値のない私」

という世界があったのです。

だから私は、そこから降りることにしました。

「何者でもない自分」として生きる

「価値のある私」になる必要もない。

「価値のない私」を否定する必要もない。

私は、何者でもない。

何者でもないけれど、存在している。

そして、存在しているだけで、愛とつながっている。

愛は、すべての存在の中にある。

そう感じることができたとき、

「誰が上で、誰が下なのか」

という世界から、少しずつ離れていけるようになりました。

誰かより価値がある必要もない。

誰かより優れている必要もない。

誰かより大切にされる必要もない。

そして同時に、

自分を小さくする必要もない。

自分を犠牲にする必要もない。

私たちは、すべての存在が一つに繋がり、ただ愛の中にいる存在。

そう思えるようになると、

「自分を大切にすること」と「人を大切にすること」が、

対立しなくなっていきました。

自分に流れて来るものを与える。

その瞬間、必要な誰かに必要なものも与える。

自分が満たされることを歓迎する。

誰かが満たされることも歓ぶ。

与えることと受け取ることも、分離しなくなる。

仕事の在り方も変わりました。

  仕事と対価は「愛の循環」

私たちは、自分たちの命を削って働く必要はない。

自分たちの中を流れてくるものを受け取り、

その見えない形を言葉や見える状態にして表現する。

そして、それを必要としてくれる人が受け取ってくれる。

その価値を感じてくれた人から、お金という形でエネルギーが戻ってくる。

対価は、誰かから奪ったものではない。

愛の交換なのだと思えるようになりました。

ここで初めて、

「お金を受け取ること」と「愛を受け取ること」が、

私の中でつながりました。

以前は、お金を受け取ることに、

「私はそれだけの価値があるのだろうか」

という完璧思考の自己評価がついていました。

でも今は違う。

価値のある私になる必要もない。

価値のない私を否定する必要もない。

ただ、自分を通して流れてきたものを表現する。

そして、その表現を受け取ってくれた人から、必要なものを受け取る。

それは、「私の価値」ではなく、「愛の循環」なのです。

この感覚に立つと、

「与えること」と「受け取ること」に優劣がなくなります。

与える人が上で、受け取る人が下でもない。

与えることだけが尊いわけでもない。

受け取ることだけが得なわけでもない。

与えたものは巡り、受け取ったものもまた巡る。

すべてが循環している。

そして、私たちが自分に必要なものを与えることも、

その循環の一部なのだと思います。

休むこと。

食べること。

眠ること。

愛すること。

対価を受け取ること。

助けてもらうこと。

歓ぶこと。 

自分を満たすこと。

これまで私たちは、

「自分のために受け取ることは、誰かから奪うこと」

のように感じていたのかもしれません。

でも、私たちは、愛を与える側であり、受け取る側の存在です。

私たちが満たされることで、そこからまた愛が流れていく。

だから、自分を満たすことは、自己中心的なことではない。

自分を犠牲にしないことは、わがままでもありません。

むしろ、自分の命を生かすことで、

初めて無理なく愛を循環させることができる。

自分を満たすことが、世界を潤す

これからの世界は、「誰が一番価値があるのか」を競う世界ではなく、

「誰もが、自分の存在をそのまま生かしていける世界」

になっていく流れに入っていると感じられます。

誰かより上になることで、自分の価値を守らなくていい。

誰かの下に入ることで、愛されようとしなくていい。

頑張り続けなくてもいい。

犠牲にならなくてもいい。

何者かにならなくてもいい。

何者でもない私たち。

それでも、私たちは愛とつながっている。

そして、その愛は私たちだけのものでも、誰かだけのものでもない。

あなたに与えられるものは、私にも与えられる。

私に与えられるものは、あなたにも与えられる。

必要なものは、必要なところへ。

愛は、愛が必要なところへ。

そして、私たち自身、

この肉体に必要なものを与えて行く。

この心に必要なものを与えて行く。

この意識に必要なものを与えて行く。

私たちは、何者でもない。

だからこそ、何者かになろうとしなくていい。

ただ生きる。

ただ受け取る。

ただ表現する。

ただ愛する。

そして、愛を循環させる。

「私たちは何者なのか」を探し続けた先で、

「何者でもなくてよかった」と思える場所にたどり着く。

そこには、価値のある私も、価値のない私もいない。

上も、下もない。

与える側も、受け取る側もない。

ただ、愛が流れている。

そして私たちは、その愛の中で生きている。

もしかしたら、「何者でもない私たち」を思い出すことから、

これまでとは違う世界が見えてくるのかもしれません。